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戦国の世、徳川家康は「厭離穢土 欣求浄土 」
と大書した旗を掲げていた。
「戦乱に明け暮れ苦悩の多いこの世はもう厭だ。
歓びと平穏に満ちたあの世へ行こう」。
平和を希求する家康ならではの、戦いの思想であった。
慶長八年(一六○三年)家康は戦国の動乱に終止符を打った。
江戸幕府誕生である。安定した成熟社会をめざす家康の志は、
その子秀忠、孫の家光へと引き継がれ、幕藩体制が完成。
日本史上に類例のない、二百六十年間に及ぶ
平和の時代は、こうして打ち立てられた。 |
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幕府安定の礎を築いたとされる
二代将軍秀忠には二人の男子がいた。
しかし秀忠は、野心的な長男を嫌い、早くに引退させてしまう。
戦乱の芽は我が子といえども摘み取ってしまう。
平和国家への意思は揺るぎなかった。
じつは秀忠には、もう一人息子がいたのだが、
頑としてこの妾腹を認知しようとしなかった。
後々の世襲争いの種を蒔くのを恐れたのである。
結局、息子は尼寺に預けられ、
やがて武家教育のために養子に出される。
引き受けたのは、かつての武田武将、信州高遠藩三万石の保科家。
保科正之の物語が、ここから始まる。 |
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正之は運命の糸に導かれるように兄家光と邂逅する。
家光は何事につけ控え目で、反面、筋を通す
ところは通し抜く異母弟を物陰から見ていた。
家光は正之を三万石の小藩から会津二十三万石へと
抜擢するとともに補佐役として重用した。
臨終の際には四代将軍となる我が子家綱の
後見を託すほど信頼は篤かった。偉大な祖父
家康、父秀忠、兄家光、そして甥の家綱・・・。
徳川将軍家の使命が何であり、
臣下である自分たちが何をしなければ
ならないかを完璧に理解していた正之は、晩年、
その真髄を子孫と家臣に家訓(かきん)とし、集大成する。 |
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日本史上に例を見ない“平和の時代”。
それを護るのが将軍家の使命であり、
将軍家を全力で支えるのが臣下の勤め、と正之は考えていた。
大君之儀 一心大切可存忠勤 不可以列国之例自処
焉若懐二心則非我孫子 面々決不可従
将軍家のことは、一心に忠勤に励むことが大切で、
他藩の動向を見て勝手に解釈すべきでない。
そうでなければ自分の子孫と認めないし、
家臣もそれに従う必要はない、
十五か条からなる家訓の第一条にはそう記されている。
この正之の魂は、二百年の時を超えて引き継がれていく。
会津の人々の血となって連綿と伝えられていく。 |
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正之が遺した家訓から二百年。
時勢は風雲急を告げ、再び戦乱の世に突入しようとしていた。
勤皇佐幕が入り乱れ、諸藩の思惑が飛び交う中で、
会津藩だけは家訓に従い、将軍家に忠誠を誓い続ける。
当時の政治の要である京都守護職を拝命した
九代藩主容保は「君臣もろともに京都の地を死場所に」と
忠義の魂を鼓舞した。
しかし状況は利あらず、鳥羽伏見の戦いに敗れ、
上野戦争では彰義隊が玉砕し、
会津藩は遂に城にこもり徹底抗戦を試みる。
青年藩士はもちろん、少年を集めた白虎隊、婦人たちの娘子隊、
まさに老若男女が、家訓の教えに殉じようとしていた。
誰もが皆、命を急いでいた。圧倒的な火力を誇る官軍は攻めに攻める。
白虎隊が散り、娘子隊が崩れ、そして遂に、会津若松城が落ちた。 |
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会津の血は会津の人々だけに
流れていたわけではなかった。新選組である。
新選組とは、戦時に本陣にあって藩主を守るために
諸芸に秀でたものを新たに選んで編成した、
会津藩でも特別に誇り高い組織である。
京都守護職容保は、近藤勇、土方歳三らに
この名を与え、京都の治安維持にあたらせた。
彼らは感動し、恩義を感じ、忠誠を誓う。
その血の中に、正之の遺訓が染み渡って
いったのも当然であろう。
大君(将軍家)の世は平和の時代である。
この世を守るために新選組は戦ったのである。 |
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黒船襲来。確かにこの出来事は、一国だけで平穏無事な社会を
維持していくことの限界を示していた。近藤や土方は政治の
要衝である京都に何年もいたのだから、
そのことは痛いほど分かっている。
しかし他人はどうあろうと自分は決めた道を歩み続ける。
不器用者と笑われようと仕方ない。忠義という。忠愛という。
理屈ではない、と近藤も土方も考えていた。大義に忠愛を尽くす
ことこそ、自分たちが自分たちであるための唯一の証のように思えた。
こうして新選組は京の町を疾風のように駆け抜け、
鳥羽伏見に転戦し、上野に馳せ参じる。
近藤の悲運の死後も土方を中心に
会津藩士とともに戦い、会津滅亡後は函館に渡る。
新選組の物語とは、
時代の波に呑み込まれていく家康以来二百六十年の平和への鎮魂歌。
そして保科正之が言い伝えた武士(もののふ)の、
魂の最期の雄叫びであった。 |
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