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力道山ストーリー 基本スペック
1940年(昭和15年)
二所ノ関部屋入門。横綱初代若乃花は弟弟子。

1949年(昭和24年)
関脇昇進。

1950年(昭和25年)
大関昇進を目前に自ら髷を包丁で切り落とし相撲界を去る。

1951年(昭和26年)
銀座のキャバレーで日系レスラーハロルド坂田と喧嘩になり、互角に渡り合う。
坂田に勧められプロレス入りを決意。

1952年(昭和27年)
プロレス修行のためハワイへ出発。米国を転戦し295勝5敗。
アメリカトップレスラーたちのド肝を抜く。

1953年(昭和28年)
後援会長の新田新作を社長に日本プロレス協会設立。
ハワイで当時不敗のNWA世界王者ルー・テーズに挑戦。
空手チョップでテーズを追い詰めたが、逆転のバックドロップをくらいTKO負け。

1954年(昭和29年)
蔵前国技館で3日間連続興行。木村政彦と組みシャープ兄弟とNWA世界タッグ戦。日本テレビ、NHKが二元中継を行う。街頭テレビでも放映され、新橋駅前の西口広場は2万人の群集で埋めつくされた。この瞬間から日本列島にプロレスブームが爆発。力道山は国民的ヒーローになる。12月、柔道界のスター木村政彦と異種格闘技戦。力道山の空手チョップが火を噴き、木村が気絶しコーナーに崩れる。レフェリーストップのKO勝ち。この戦いは「昭和巌流島の決闘」と呼ばれる。

1955年(昭和30年)
怪物キング・コングを延長戦の末破り、初代アジアヘビー級王者に。
観衆は超満員の1万4千人。
伝記映画「力道山物語・怒涛の男」公開。
主題歌は美空ひばりが歌い、「りきさん」「ひばりちゃん」と呼び合う仲に。
鉄筋5階建てのプロレスジム「日本プロレスリングセンター」を落成。

1956年(昭和31年)
ニューヨークへ飛び、当時最高級のクルマとカーマニア垂涎の的であったガルウイングのベンツを購入し数々の名勝負をしながらアメリカ大陸横断。

1957年(昭和32年)
鉄人ルー・テーズ初来日。後楽園球場でNWA世界ヘビー級選手権を行い引き分ける。
2万人の観衆を集めた日本初のスタジアム格闘技試合となる。

1958年(昭和33年)
ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムで行われたインターナショナル・世界ヘビー級選手権でルー・テーズを倒す。この時のテレビ視聴率は87%という驚異的な数字を記録したといわれている。

1960年(昭和35年)
馬場正平(ジャイアント馬場)と猪木完至(アントニオ猪木)が入門。

1961年(昭和36年)
赤坂に日本で最も新しい設備を誇る8階建ての超高級分譲マンション「リキ・アパート」完成。最上階は全フロアで200坪。パーティー用の大広間は100坪もあり、そこにはグランドピアノ、栄光のトロフィー、熱帯魚の大水槽があり、ホームバーの棚には世界の名酒が美しい色彩を飾っていた。ベランダには変形プールが広がり、スナックバーもあった。7月には渋谷に3000人収容のプロレスホール、近代的なスポーツジム、ボーリング場、サウナ風呂、レストランなどを備えた日本初の複合エンタテインメント施設「リキ・スポーツパレス」を完成。

1962年(昭和37年)
ロサンゼルスで銀髪鬼フレッド・ブラッシーを叩きのめしWWA世界チャンピオンに。
リターンマッチは日本プロレス史上初の流血戦となり、テレビ観戦していた老人6人が1度にショック死。

1963年(昭和38年)
12月8日、赤坂のナイトクラブで暴漢に刺され15日に死亡。(39歳)